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2023-04-06

濱口竜介監督と深田晃司監督が語る「ミニシアターの思い出」シネマスコーレの伝説的なエピソードに驚きと笑顔


 

シネマスコーレ40周年を記念し、濱口竜介監督と深田晃司監督による「ミニシアターの思い出」をテーマにしたトークショーがスコーレインディーズスペースで行われました。ミニシアター・エイドの発起人となり、ミニシアター支援のためクラウドファンディングを実施した2人と、シネマスコーレの支配人となった坪井さんが進行をつとめるトークショー。

濱口監督と深田監督が語るそれぞれの思い出は貴重な話の連続で、坪井支配人が語るシネマスコーレの伝説的なエピソードの数々に、濱口監督と深田監督が驚きの表情や笑顔を浮かべながら、予定の1時間を超えてもまだまだ続きそうなほどの盛り上がりでした。(取材日:2023年3月25日)

人生初のミニシアター体験は「シネスイッチ銀座」「池袋のACT SEIGEI THEATER」

満員御礼となったスコーレインディーズスペースに登場した濱口竜介監督と深田晃司監督、シネマスコーレ支配人の坪井篤史さんが進行役となり「ミニシアターの思い出」をテーマにしたトークショーがスタートしました。初めに、坪井さんが「一番最初に行ったミニシアターは?」と聞くと、濱口監督は「高2か高3の時に、シネスイッチ銀座で岩井俊二監督の『PiCNiC』を観たのが最初です」と答え、『Love Letter』や『打ち上げ花火、下から見るか?横から見るか?』を観て岩井俊二監督に興味を持ったという濱口監督は「岩井俊二さんの映画をやっているところを探していきました」とミニシアターであると意識せずにシネスイッチ銀座に行ったことを話しました。千葉県柏に住んでいた濱口監督は、この時、初めて1人で銀座に行ったと言い「すごくオシャレな空間で、集まっている方もオシャレだと感じました。自分がちょっとしゃれたことをしている気持ちになりました」と振り返りました。

深田監督はミニシアターに行ったのは大学に入ってからで、最初の1本はあまり覚えていないそうですが、強烈な印象が残っている体験として「池袋のACT SEIGEI THEATERにラース・フォン・トリアーの『キングダム』の一挙上映を観に行きました」と答えました。また「高田馬場のACTミニ・シアターによく行きました」と天井が低く座椅子だった劇場内の様子を語り、ゴダールを観に行った際の思い出として「お客さんが誰もいない映画館にゴダールがかかっている、なんて哲学的な空間なんだろうと、手を伸ばしたら影絵が作れるような空間で、アングラなイメージでお客さんが少ない、自分が好きな空間はお客さんが数人しかいない所なんですが、今となっては、入ってもらわないと困るという矛盾を抱えながら生きています」とお客さんを笑わせました。

ミニシアターではないものの深田監督の映画鑑賞体験として「東京都小金井市で月に1回開催されていた16ミリフィルムの映画鑑賞会」を挙げ、溝口健二監督、黒澤明監督など、昔の映画をたくさん鑑賞したことを教えてくれました。「ロシア語字幕付きの内田吐夢の『土』が上映されることもあったそうです。さらに年末に公民館で行われたファミリー上映会では、ジャン・ルノワールの『河』、アンドレイ・タルコフスキーの『僕の村は戦場だった』などが上映されるというラインナップだったそうで、深田監督は「自分的にはかなり嬉しかったです。そこからミニシアター体験に繋がっていったと思います」と話しました。

ユーロスペースでの思い出を語る「もしかしたら同じ空間にいたかも」

ミニシアターで観た思い出のプログラムを聞かれた濱口監督は小5から中1まで住んでいた岐阜に住んでいたそうで、岐阜のロイヤル劇場で、ケビン・コスナーの『ワイアット・アープ』を観た際のことを話し「これで爆睡したんです。映画は面白いものだ、ワクワクするものだと思っていたら、映画で寝ることってあるんだと呆然としました」と意外な経験を明かしました。また、東京でミニシアター通いを始めた頃の思い出として「アートハウス的な映画に慣れていない時に、映画研究会で先輩に薦められて、ピエル・パオロ・パゾリーニ特集を観に行った時に、理解の及ばない映画というものが大量にあることを知りました。未だに租借できていないと思います」と話しました。

濱口監督のエピソードから同じ時期にユーロスペースに通っていたことがわかった深田監督「もしかしたら同じ空間にいたかも」と盛り上がり「そこで映画美学校のチラシを見つけて通うことに」と映画監督としての人生のスタートに繋がったミニシアターであることを話し「我々の人生がそこで・・・」と、ユーロスペースですれ違っていたかもしれない2人が映画監督になり語り合う名古屋の夜は特別な時間でした。

深田監督は高田馬場のACTミニ・シアターでの鈴木清順監督特集について「清順さんがトークをした後、一緒に飲みに行くという映画館でした」と話し、8人くらいで囲んでどんどん質問をしていく感じだったと振り返りました。その日の午前中にラピュタ阿佐ヶ谷で小津安二郎監督の『東京の合唱』を観ていた深田監督は鈴木監督から「『そんな若いのに小津の映画なんか観ちゃだめだよ!映画は動かないとダメなんだ!』と言われて、具体的に戦わないといけない対象なんだと感じました」と貴重なエピソードを披露。さらに、『殺しの烙印』で炊飯の匂いが好きな殺し屋という設定についての質問に「『タイアップで炊飯器を使わないといけなかったんだ』と言っていて衝撃でした」と話し、「距離が近いのはミニシアターならでは」と様々な思い出を語ってくれました。

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「満席のユーロスペース」「2進法だったっけ?というような数字」対照的な初上映体験

自身の作品が初めてミニシアターで上映された時のことが話題になり、濱口監督はテアトル新宿で15分くらい卒業制作作品が上映された時は客席がガラガラだったと振り返って「そんなものかと思いつつ、広い空間で大画面で観るのは、感慨深い気持ちになりました」と話し、東京藝術大学大学院の修了作品である『PASSION』の上映について「ユーロスペースでかけてもらって、満席だったんですよ。凄く感動して、信じられないような光景で、立ち見もあって満席、これは一生忘れない」と語りました。舞台挨拶に登壇していた渋川清彦さんから「いいっすね!映画ってのは、映画館で観るもんです」って言ってもらえたと話してくれました。上映後に観客と交流があったのかを聞かれると「覚えてないんです。キャストの人もいたので、飲みに行っちゃったかも」と笑顔で答えました。

深田さんは20歳の時に制作した自主映画『椅子』をアップリンク渋谷に持ち込んだと言い「半年後くらいに連絡が来て、2週間1日3回の上映が決まりました」と上映が決まった経緯を話しました。さらに「そこからが大変で、試写会にも人が集まらず、上映が始まると地獄でした」とお客さんが全然来なかった日々を語り「2週間1日3回が固定されたまま、たまに友人が来て、2進法だったっけ?というような数字でした。上映って恐ろしいと思った24歳でした」と壮絶なデビュー戦の思い出に、濱口監督が「よく立ち上がりましたね」と声をかけ、深田監督が「未だに立ち上がっていないかも」と笑わせました。

2人の出会いを聞かれ、ある映画祭の名前を挙げた深田監督に「いい話ですね」と濱口監督。2人が共に経験した苦々しい思い出を余談や笑いを交えて語たりました。深田監督が「濱口竜介って名前が怖そうだったんですが、話してみたら非常に親しみやすかったです」と出会いの印象を語り、深田監督が企画した映画祭の企画プログラムについて「濱口さん、鞠子哲也さん、富田勝也さん、今泉力哉さんなど、いい目をしてるじゃないか自分」と紹介するなど、和やかな雰囲気でトークが続いていきました。

全国にあるミニシアターの中で印象に残っている映画館を聞かれ、濱口監督は「元町映画館」を挙げ、『ハッピーアワー』を今でも毎年年末に上映してくれていることを紹介し「8年たってもかけ続けてくれていて、制作する側と上映する側の垣根が消えていって同じスタッフのような感じになっていっています。今後もお付き合いが続いていくと思います」と話しました。深田監督はデビュー作以来ほぼすべての作品をかけくれている「アップリンク」を挙げ「スタッフの人が良くしてくれていただけに、閉館の時にも行けずに、最新作も上映できていないし残念です。シネコンではなく個性が強い空間なので、起きた問題をビジネス的に処理できない所がありますよね」と語りました。また、『ほとりの朔子』をきっかけに50年以上続いている札幌の映画サークルとの縁が続いていることを紹介し「高齢者が中心な中、ある大学生がグイグイ来てくれて、映画を作るたびに招いてくれています。取材もブッキングしてくれたり、地元のお客さんと知り合うし、地域のお客さんとの関係ができてきています。坪井さんと近いくらいのエネルギッシュさが地域の映画文化を支えています」と話しました。

シネマスコーレの伝説的なエピソードに興味津々の濱口監督と深田監督

トークショー中盤では、濱口監督から「40周年を迎えたシネマスコーレの節目となった作品は?」と質問を投げかけられた坪井支配人、歴代の動員数ベスト3作品として、第三位が1987年の『ゆきゆきて、神軍』動員1万人突破、第二位が2004年のソクーロフ『太陽』であることが紹介され「代表の木全が昭和天皇の作品をどこも扱わないだろうと配給に掛け合い、東京とシネマスコーレの2館でスタートしました」と話すと、濱口監督は「2館!?」と驚いていました。そして、第一位は2010年、若松孝二監督の『キャタピラー』が動員数3万人の大ヒットだったことを紹介、坪井支配人が「5回上映していたら、若松さんが電話してきて7回上映にしろと、51人しか入らないけど立ち見も出て、この記録は未だに破られないですね」と話すと、深田監督は「スコーレを象徴するような話ですね」と納得の表情を見せました。

シネマスコーレを立ち上げた若松孝二監督について坪井支配人は「代表の木全に任せるということで支配人にしていたんですが、任せるっていうわりにに毎日のように電話がかかってきて」と12年間程、監督の下で働いた間に経験したことを話し「若松孝二さんのパワーは凄くって、上映スタートして冒頭10分で出てきて、今すぐ止めろとか言うんですよ」などの伝説的なエピソードを、目を輝かせながら聞いている濱口監督と深田監督の姿がありました。

さらに深田監督と濱口監督がが発起人として、閉館の危機にさらされている全国の小規模映画館「ミニシアター」を守るために立ち上げた「ミニシアター・エイド」に話が及び、濱口監督が「(ミニシアター・エイドの)きっかけになったのが、シネマスコーレの坪井さんへのインタビューでした」と話し、深田監督も「ミニシアターの人たちって、ちょっとやそっとの大変さでは大変と言わなくて、あの記事で初めて知ることができました」と話しました。この日、記事を担当したmiyabi yamaguchiさんも会場に来ていて、両監督が直接、感謝の気持ちを伝えていました。

「ミニシアター、今どうなってますか?」シネマスコーレ・坪井さんの話/miyabi yamaguchi

「ミニシアター・エイド」を通じて、全国のミニシアターとやり取りした深田監督と濱口監督が「日本版CNC」の必要性を語りました。深田監督が「ミニシアターエイドは応急処置でしかなくて、もっと構造的に、継続的に支援するシステムを作るのが次の課題かなと思ってます。フランスの場合はCNC(国立映画映像センター)という映像文化全般をサポートする仕組みがあって、韓国にもコビックという仕組みがあります」と言い「フランスは人口が少ない地域も映画館は普通にあって、多くのところが興行収入以外に補助金で成り立っています」とフランスでアートハウス系映画館にインタビューことを紹介しました。深田監督が「映画館は基本的なインフラだという意識なんですよね。人口が少ない地域だからって電気が通ってなくて良いわけがないのと同じで、文化も権利として享受できなきゃいけないと映画や演劇、音楽が聴ける文化施設が必ずある」と話すと、深田監督も「文化も精神的なライフライン。コロナの時にみんな感じた、その感覚が残っているうちに、活動が広がっていけばいいなと思います」と伝えました。

坪井支配人は現在のシネマスコーレについて「3年で絶対戻ると思っていたんですけど、3年後も戻らなかったんです。レイトショーに人が来なくなって、夜が厳しくて。物価高、電気や水道、お客さんが少ないのに経費がどんどん上がる。定休日を設けてしまうと戻せなくなると思って、毎月が戦いです。公的支援があればいろいろやれるんじゃないかと思います。これ以上ミニシアターを減らしたくないので。」と強い想いを伝えていました。濱口監督は「コロナの時ほど分かりやすくない形でミニシアターに危機が迫っていると思うので、何とかしなきゃいけない。『キャタピラー』みたいなヒットが出ることで基調コードが変わる可能性はいつでもあり、それまでひとまず続けるしかない」と話しました。深田監督も濱口監督も新作について考えていることがあるようで、坪井支配人が「お二人の新作をかけるためにも頑張ります」とトークイベントを締めくくりました。

シネマスコーレ

Address:名古屋市中村区椿町8-12 アートビル1階

名古屋市中村区椿町8-12

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